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大手筋商店街の周りには、名所や旧跡がたくさんあります。
のんびりと伏見観光を楽しまれてみてはいかがでしょう?

※クリックすると大きな地図を見ることができます。

周辺観光名所マップ

丹波橋エリア

  • 伏見城代酒井重勝が亡き妻お春の方の菩提を弔うために創建。正親町天皇の信任の篤い名僧、伝養和尚を開祖として迎えた曹洞宗の寺。山門と観音堂は伏見城の遺構とされ、特に観音堂は落城の「血天井」のひとつと伝えられています。

  • 亨保年間(1716-35)黄檗山竺庵浄印禅師の隠居所として、戦国大名の伊達政宗の屋敷跡に黄檗宗の寺として開かれました。境内には政宗お手植えの大きな木斛の木があります。独湛和尚が中国から来日した隠元禅師のために素朴な普茶料理を供したところ、亨保年間に茶人、俳人に好評を得、先代の住職、荒木幸山が寺に伝わる献立をもとに普茶料理を広く一般に開放。枯山水の庭を眺めながら普茶料理が味わえます。

  • 天正十四年(1586)創建。門を入って右手にある四面石仏は鎌倉時代のものとされる珍しい石仏。寺伝によると十三重石塔の一部だったともいいわれています。石仏の北側には小さなお堂があり、美しい千手観音が祀られています。

  • 本尊はその名の通り、全国でもめずらしい大黒天。昔から六〇年に一度甲子の年にご開帳されます。薩摩藩の祈祷所であったため、寺田屋事件の九烈士の墓や木曽・長良・揖斐三川の治水工事を行った薩摩藩の家老平田靱負の墓があります。

  • 本尊の大黒天は、インドの摩訶迦羅天と、大国主命が結合した神で五穀豊穣・財福の神。当山の名水は溢れ出ずる水の中に金色の光を感じ、本尊にちなんで「金運清水」と命名。1日・15日は、金運清水をお供えして、豊かな幸せをお祈りする縁日です。また、薩摩藩ゆかりの寺としても有名で、西郷隆盛が建立した寺田屋事変九烈士の墓碑があります。

  • 浄土真宗本願寺派に属し、寛永九年(1632)に本山より本仏と寺号を賜ったことにはじまります。現在の本堂は元禄六年(1693)に、上棟し、浄土真宗の寺院としては市内最古に属するものとされ、京都市の文化財の指定を受けています。

  • 寛永年間(1624~44)初期に当誉上人によって創建。淀川を運航する過書船の運賃の値上げに苦しむ商人のため、江戸幕府に直訴して暗殺された義民、小林勘次の墓や夏目漱石の「坊ちゃん」に登場する赤シャツのモデルとなった農学士、西川忠太郎の墓があります。

  • 金札宮は久米村の産土神で、天太玉命(白菊翁)・天照大神・倉稲魂神を祀り、世阿弥作の謡曲『金札』にその緑起が伝えられています。境内には高さ約十メートルのクロガネモチの巨木があり、樹齢は千年以上といわれています。

  • もとは向島の東泉寺町にありましたが、度かさなる水害のため、現在地に移転。延宝四年(1676)頓誉円西上人によって中興されました。寺伝では天明年間(168188)に浅井長政の子孫といわれている、薫誉智香尼が再中興して尼寺となり、後に男僧寺院となりました。本尊の阿弥陀如来は恵心僧都作と伝えられています。門前にはなまぐさものと酒を禁ずるという意味の「禁葷酒」の字句が刻まれた石標があります。

  • 延宝六年(1678)黄檗山万福寺の高泉和尚がこの地にあった永光寺を再興し、仏国寺としたのが起源とされ、後水尾天皇より、「大円覚」の勅額を賜りました。仏殿に安置されている毘沙門天像は、高泉和尚が付近の薮の中に散逸していたものを拾い集め、修造した霊像といわれています。境内には青銅製の高泉和尚銅碑があり、また墓地には伏見奉行の小堀遠州の墓があります。

  • 芳醇でまろやかな「京仕込キンシ正宗」に活かされている「常盤井水」。「常盤井水」会員の井水保存の取り組みを通じて、地域の環境づくりにも役立つよう願っています。

  • 明治四十五年(1912)明治天皇の崩御にあたり、伏見城跡のこの地へ奉葬が決定され、墳墓の整備や参拝に便利な桃山駅の改築などが行われました。緑豊かな杉並木の参道から石段を登り詰めると、伏見区内や宇治方面が見渡せます。

  • 平安京を開いたことで知られる桓武天皇は、大同元年(806)崩御になり、当初は葛野郡宇太野の山陵の地と定められていましたが、都に異変がたびたび起こったことから改めて現在の地に大規模な陵墓を築造し、葬られました。

  • 八科峠には石碑があり、その脇には車石の碑があります。車石は荷車が通りやすいように敷いた石のレールで、昔は牛車などが上り下りしました。伏見城築城以後、京都から宇治を経由して奈良を結ぶ街道として開け、旅人で賑わいました。八科峠の「八」は多い、「科」は階段状の意味で、急な険しい山道であることからこう呼ばれていました。

  • かつての伏見城の内堀跡が整備されて、緑あふれる憩いの場所となりました。堀の一角には城内へ水を供給する水道設備があったと考えられています。伏見桃山城が見える公園では春は桜が美しく、水生植物も多数植えられており、早朝は散歩やジョギングなどを楽しむ人たちの格好の場所。敷地内には北堀公園地域体育館があり、バレーボールや、バドミントンなどができるアリーナ、トレーニングルームなどが有料で利用できます。

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南桃山向島エリア

  • 明治天皇の崩御にあたり、殉死した乃木希典将軍と婦人を祀っています。本殿は明治天皇陵を鎮護するため北に面して建てられており、復元された乃木大将の生家や日露戦争で司令官として使われた中国の民家、宝物館などがあります。

  • 昨年60余年ぶりに復活した湧水。旧の勝水の時代から、参詣者は家族の成長・幸運を願って神前の勝水で手を洗い、清めてから参拝します。その後、水筒に詰めて家庭に持ち帰り、毎日神棚に供えられていました。今日では「勝水」としての御利益のほかに、飲料水としても、はんなりとしたのどごしが、美味しいと評判です。

  • 後土御門天皇が文明12年(1480)に般舟三昧院として建立の後に豊臣秀吉の港整備にともない移転。その跡地に真言宗の指月山円覚寺が建てられました。その後、秀吉が越前の金剛院から亀州宗鶴禅師を招いて住まわせ、月見の宴を催したといわれています。

  • 相模國の岸誉雲海上人が慶長元年(1596)に向島に創建、伏見城廃城後に現在の地に移転。地蔵堂に祀られている延命地蔵尊は、短命の相があった雲海上人を心配した両親が延命長寿を祈願した地蔵。別名たぬき寺としても知られています。

  • 室町時代の初め、この一帯には後伏見天皇の皇后、藤原寧子の発願で建立された大光明寺があり、光厳・光明・崇光の各天皇も落飾されました。伏見城築城の際、相国寺に移され、現在は光明天皇・崇光天皇の陵墓と皇孫治仁親王の陵が東西に並んでいます。

  • 宇治川に架かる観月橋付近は、古くから月の名所として知られ、秀吉はこの地に最初の伏見城を築きました。指月とは四つの月のことで空の月、川の月、池の月、盃の月の四つを一度に見ることができるからだともいわれています。

  • 明治6年(1873)府営工場「伏水製作所」が設置されました。鋳型・木型・鍛冶の作業場があり、動力には宇治川から取水し、水車が用いられました。明治10年、明治天皇は陸軍視察の途中に立ち寄られたことからその跡地に石碑が立っています。

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伏見桃山・中書島エリア

  • 金比羅堂は、伏見城内の学問所前に建立されていたものを、元和六年(1620)の伏見城廃城にともない秀吉と淀殿ゆかりの子授け陰陽石と共に宝福寺に移転。本格的な座禅堂で座禅の体験もできます。また、道元禅師入越足跡二五〇キロ墓石の旅、発願寺で顕彰もあり、堂内に肖像画を安置しています。

  • 二層のめずらしい形の山門は伏見城から移築されあ遺構いわれています。その両脇には即十六躰地蔵や豊臣秀吉に天下統一の大福を授けたといわれる朝日大黒天が祀られています。これらは徳川家光が伏見城から移したものといわれています。

  • 周辺の地名の由来ともなっている油懸地蔵を祀る西岸寺。山崎の油売りがこぼした油の残りを地蔵尊にかけたら、商売繁盛したといわれています。境内には松尾芭蕉が訪れたときに詠んだ「我衣にふしみの桃のしづくせよ」の句碑があります。

  • 御香宮は「延喜式」にも記されている伏見の産土神。社伝では貞観四年(862)に境内からたいそうの香りのよい水が沸き出し、病人が飲んだとことたちどころに快復したことから、清和天皇より御香宮の名を賜りました。社殿脇の御香水は「日本百名水選」のひとつで、伏見の酒造りに使われる水と同じ水脈です。表門は文禄三年(1594)豊臣秀吉が築いた伏見城の大手門の遺構です。近年、本殿が修復され、鮮やかな極彩色が蘇えりました。境内には小堀遠州が愛した「おそらく椿」は三月頃が見頃となります。

  • 平安時代、境内から水が湧き出て、その「香」が四方に漂いました。飲むと病がたちまち癒え、それにちなんで「御香宮」と称されています。霊水信仰が厚く、伏見の酒造りの生命の水とされています。環境省「名水百選」のひとつ。

  • 「島の弁天さん」と呼ばれ親しまれている長建寺は深紅の土塀と唐様の竜宮造りの門が周りの緑とあいまってひときわ目を引きます。本尊は京都で唯一、平安中期の作と言われる八臂弁財天で、福智のご利益で有名です。夏の弁財天は大阪の天神祭のルーツといわれています。

  • 仏様に供える水を閼伽水と呼びます。当時の「閼伽水」は伏見の良質の地下水と同じ水脈。本尊の弁財天は、古来、インドでは水の神。そのため、弁財天のお堂の多くが池や川のほとりにあります。当時は水を一番大切にしており、密教十二天のひとつ水天尊もまつられています。

  • 文禄三年(1594年)日親聖人の法孫・教行院「日受上人」の創建による日蓮宗本法寺派の寺院。徳川家康公の第二息女・良正院督姫殿の篤い帰依を受け、その邸舘と敷地を寄進され、現在の地に移りました。「慶長牡丹の寺」、「大手筋の妙見さん」として親しまれています。

  • 文応元年(1260年)法然上人より8世の孫寛海上人によって開基された寺。頓誉上人が、ときの伏見奉行小堀遠州(政一)より譲りうけて、寛永元年(1624年)現在地に移りました。山門脇にある薬師堂の本尊は、大和国の三笠山の薬師寺にあったものをこのとき併せて移したものです。

  • 御祭神、天武天皇(大海人皇子)を祀る三栖神社。十月に行われる炬火祭は、壬申の乱のとき、天武天皇が大津行幸するにあたり、村人が大きなたいまつを灯して暗い夜道を照らしたという故事に由来。葭で作った直径4メートルの炬火が夜空を焦がし、竹田街道を巡行します。

  • 御祭神、天武天皇(大海人皇子)を祀る三栖神社。十月に行われる炬火祭は、壬申の乱のとき、天武天皇が大津行幸するにあたり、村人が大きなたいまつを灯して暗い夜道を照らしたという故事に由来。葭で作った直径4メートルの炬火が夜空を焦がし、竹田街道を巡行します。

  • 「白菊水」は、しなやかで、飲み口の綺麗な伏見の酒の源。当時・久米の里の仙人・天太玉命(あめのふとたまのみこと)が育んだ、白菊の露の一滴から湧き出たと伝えられます。蔵元「神聖」の酒とこだわりの鳥料理も逸品です。

  • 本店蔵を改装した黄桜記念館。酒造りの工程をわかりやすくビデオで紹介し、テレビコマーシャルでおなじみのカッパのキャラクターの原画が展示されています。併設のレストランでは伏水で仕込んだ地ビールなども楽しめます。

  • 敷地内に湧き出る「伏水」は、酒造りに欠かせません。「黄桜酒場」では、この名水で仕込んだ出来たての地ビールや日本酒を料理とともにゆったりと味わうことができます。

  • 月桂冠(株)が発祥の地伏見に酒蔵を利用して開いた資料館で、酒造りの道具を保存展示。伏見の酒の仕込み水が湧き、年間を通じて酒造りの工程を見学でき、きき酒もあります。周辺はかつて馬借前と呼ばれ多くの旅人で賑わいました。

  • 記念館は、寛永14(1637)年創業の月桂冠発祥の地。こんこんと湧き出る名水「さかみづ」は酒造りの命の水。今も、隣接する酒蔵で使用され、その清らかに澄んだ水は、きめ細かくまろやかな酒質を生み出します。「さかみづ」の名は、「栄え水」とともに古くは酒の異名でもありました。

  • 慶長六年(1601)に徳川家康が伏見に日本初の銀座を開き。大黒常是が通用銀の鋳造を開始。周辺には両替商が軒を連ねていました。石碑のある大手筋商店街には伏見にゆかりの深い人物をモチーフにしたからくり時計があり、人びとを楽しませています。

  • 鳥羽伏見の戦いは慶応四年(1868)に勃発。幕府軍のたてこもる伏見奉行所周辺は激戦地となり焼け野原となりました。官軍陣地へ炊き出しの命をうけた料亭の「魚三桜」は幸いにも焼け残りましたが、表格子には今も当時の弾痕が残っています。

  • わが国最初の電気鉄道(チンチン電車)は明治二八年(1895)京都岡崎公園一帯で開かれた博覧会への客輸送のため、明治二七年に伏見(油掛通)と京都駅の間に開通しました。市民に親しまれた市電は昭和四五年(1970)まで走りました。

  • 小堀遠州が伏見奉行に任ぜられ清水谷からこの場所に奉行所を移転。茶人としても名高い遠州は公家や有力商人を招いて茶会を開き、また三代将軍家光も上洛の際に立寄りました。明治期には工兵隊の兵舎となり、庭園の一部は御香宮に移されました。

  • 江戸時代、港町伏見は大坂と伏見の間を行き来していた旅人専用の三十石船や運送専門の船などで賑わいました。寺田屋は船を待つ客が泊まった船宿で、幕末には坂本竜馬が薩摩・長州との連絡に使い、寺田屋騒動や妻お龍との出会いの場所でもあります。

  • 伏見は大坂、奈良、京都を結ぶ港湾都市として賑わいました。やがて角倉了以が高瀬川を開削を実現し、三都市が水運で結ばれるようになると伏見は港町として、いっそう発展しました。石碑は了以の偉業を今に伝えます。

  • 江戸時代には旅人を乗せて大坂と伏見を結んだ三十石船が発着地で賑わった伏見港。現在、三十石船と十石舟が伏見の町を流れる宇治川派流を春から秋の期間水辺を巡ります。豊かな緑と酒蔵のおりなす美しい風景を眺めながら舟の旅を楽しむ事ができます。

  • 江戸時代には旅人を乗せて大坂と伏見を結んだ三十石船が発着地で賑わった伏見港。現在、三十石船と十石舟が伏見の町を流れる宇治川派流を春から秋の期間水辺を巡ります。豊かな緑と酒蔵のおりなす美しい風景を眺めながら舟の旅を楽しむ事ができます。

  • 大正8年に築造された月桂冠株式会社の旧本店社屋を活用した伏見夢百衆。おみやげ処として伏見の清酒20銘柄約100種をはじめ、名物酒カステラ、酒まんじゅう等様々な伏見名物を販売。また、喫茶では伏見清酒20銘柄のきき酒やお酒の仕込み水で点てた、水出しコーヒー・紅茶をはじめ甘味類も豊富。旅に便利な伏見の観光パンフレット等も手に入ります。

  • 豊臣秀吉が伏見城築城のため宇治川の大規模な治水工事をして開いた伏見港。それが伏見発展の基礎となりました。公園内には復元された三十石船があり、宇治川派流に沿って遊歩道や憩いの場所がつくられています。

  • 水害に悩まされた伏見は外国人技師の指導のもと大正から昭和にかけて治水工事を行い伏見新堤を築堤。三栖閘門は濠川と宇治川の舟運連絡を存続するために建築されました。現在、伏見みなと広場として整備され、水辺のいこいの場所として親しまれています。

  • 水害に悩まされた伏見は外国人技師の指導のもと大正から昭和にかけて治水工事を行い伏見新堤を築堤。三栖閘門は濠川と宇治川の舟運連絡を存続するために建築されました。現在、伏見みなと広場として整備され、水辺のいこいの場所として親しまれています。

  • 歴史的な意匠を有し、地域の良好な景観の形成にとって重要な役割を果たしている建物として、松本酒造の酒蔵等は歴史的意匠建造物及び景観重要建造物に指定されています。

  • 鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約二百名が伏見京橋に上陸。ここ伏見御堂を宿陣とした。本堂の畳を楯に鉄砲の撃ち合いがあったともいわれている。

  • 鳥羽伏見の戦いで、土佐藩は鳥羽方面で警備に付いていましたが藩主・山内容堂は参戦を禁止、藩大目付の板垣退助は「薩摩と行動を共にせよ」と密命を出し、藩士の一部が参戦した。

  • 幕末の慶応四(一八六八)年一月二日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約二百名が大坂から船で伏見京橋に上陸して伏見御堂を宿陣とした。伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けた。

  • 負傷した龍馬を肩に掛け、寺田屋から逃走した長州藩の三吉慎蔵は、途中の寺に探索者がいるのに気付いて方向転換。濠川端の材木小屋を見つけて忍び込み、龍馬をその小屋に置いて伏見薩摩藩邸に駆け込んだ。


  • 薩摩藩邸へは龍馬遭難事件のことをすでにお龍が知らせていたので、藩邸の留守居役の大山彦八は薩摩藩の旗印を掲げた船を出して龍馬を無事救助。龍馬とお龍は一月二十九日まで伏見薩摩藩邸に滞在し、ふたりは傷の治療をかねて霧島温泉に向かった。

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竹田・下鳥羽エリア

  • 方角の災いを除く方除けのご利益で知られる城南宮は、国常立尊・八千矛神・神功皇后を祀っています。境内には源氏物語の植物を集めた落水苑があり、春と秋の二回、遣水を盃が流れるまでに歌を詠み、盃の酒をのみほす風雅な曲水の宴が行われています。

  • 病気平癒の霊験あらたかな神水といわれる「菊水若水」。東大寺お水取りの香水は、若狭・遠敷川から「菊水若水」を通り、二月堂の若狭井に達するとされています。

  • 創建は鳥羽法王が鳥羽離宮東殿の御堂としたのをはじまりとして九体阿弥陀堂と不動堂が建立され創建以来中世まで栄えました。後に自らの御陵としました。本尊の阿弥陀如来は藤原末期の定朝様式の系統に属し胸に卍が書かれた珍しい像です。

  • 北面の武士遠藤盛遠と、渡辺左衛門尉渡の妻袈裟御前の悲恋の物語が伝わる寺。自らの罪を恥じた盛遠は出家し、文覚上人となりました。上人の建てた恋塚が寺名の由来。袈裟御前・渡辺渡・文覚上人の本像が安置されています。

  • 天武天皇即位二年(674)に道昭によって開かれました。本尊の丈六阿弥陀如来像

  • 平成10年に会館。中国清代につくられた乾隆ガラスやパブロ・ピカソ(1881~1973)の晩年における最重要作品で、1968年に製作された銅版画347シリーズ、洋画、現代日本画、彫刻などを常設展示しています。二階にはファインセラミックの技術の返還が学べます。

  • 院政期に政治の中心として栄えた鳥羽離宮の跡地で、復元図の石版があります。明治維新の際は鳥羽伏見の戦いの舞台にもなりました。

  • 全国有数の広さを誇る大展示場やホール、大小の展示室があり、京都の文化と活力が体感できる多彩なイベントが催される会場です。

  • 城南宮の表参道から西の鳥羽街道に小枝橋が架かっています。慶応4年(1868)の正月にこの小枝橋の付近で発砲されたアームストロング砲の音をきっかけに鳥羽伏見の戦いの火ぶたが切っておとされ、戦いは伏見全域に及びました。

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深草・墨染

  • 武神や学問神を祀っています。素盞鳴命や別雷神、日本武尊など全部で十二柱の神を祀っていることから、長い歴史の過程のなかで他のいくつかの神社と合併してできたものと思われています。藤森神社の社名は室町時代にできました。境内には神功皇后が新羅侵攻のさいに軍旗を埋納したといわれている旗塚や、名水「不二」の水が湧く井戸があります。五月の節句(別名菖蒲の節句)の発祥の地といわれています。

  • 「二つとない(おいしい)水」という意味の「不二の水」。戦国時代から勝ち運を授ける水といわれ、全国からこの名水のご利益を授かろうと参拝者が多く訪れます。

  • 美しい墨染桜が咲くことで知られる墨染寺は「墨染」の地名の由来となった寺です。寺伝では寛平三年(891)太政大臣藤原基経がこの地に葬られたのを哀悼して、上野岑朝臣が桜に向かって歌を詠むと、花が薄墨色に染まってしまったといわれています。豊臣秀吉はこの墨染桜の話を聞き、寺領千石を与え、日蓮宗墨染桜寺として再興しました。本堂前にある御手洗鉢は明和五年(1768)年に歌舞伎役者の二代目中村歌右衛門が寄進したもので「墨染井」と呼ばれています。

  • 曹洞宗の始祖道元が宋より帰朝後、建仁寺を経て閑居した安養院が欣浄寺の前身。寺伝では、天正年間(157391)に清涼山欣浄寺として現在の地に移されました。寺宝の清涼寺式釈迦如来像や道元作とされる石像などが寺の由来を今に伝えています。また、伏見大仏といわれる高さ約五・三メートルの大仏が安置されており、木造の仏像としては日本一の大きさといわれています。

  • 幕末の慶応三(一八六七)年十二月十八日、伏見奉行所に陣を移した新選組の隊長・近藤勇は二条城へ行った帰り道、伏見街道が屈曲する墨染通り付近で狙撃された。弾は左肩に命中したが致命傷には至らず、そのまま馬を走らせて伏見奉行所に逃げ込んだ。

  • 「清和の井」は「料亭旅館 清和荘」のお料理を美味しくしている命の水。

  • 墨染インクラインは、大津市と京都蹴上を結ぶ第一疏水開通に続いて、明治二八年(1895)に完成。昭和一七年以降は使われなくなり、同三四年、国道二四号線改築のために廃止されました。水路の高低差15メートル、長さ30メートル弱。淀川・宇治川・琵琶湖を周航する船は、落差のある場所をインクラインに引き上げられて相互に運ばれました。

  • 撞木町界隈は、京街道・大津街道への分岐点に近く、古くから人びとの行き来で賑わい、遊廓や芝居小屋、土産物屋が軒を連ねる一大繁華街だったといわれています。現在、郭の入口を示す場所は江戸時代には塞がれていました。井原西鶴の「好色一代男」では主人公の世之介が「どうして入口を塞いだのだろう…」といっています。大石内蔵助も南の門から入りました。

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